スワミィが帰ってきたわ❤
スワミィだよ❤
世間的にはGWは終わったの???
スワミィ、全然、終わらす気がないんだけど、無理やり終わらせられちゃった。ブヒ。
あと1年ぐらいGWを続けたかったんだけど、ブヒブヒいろいろ言う人がいるから帰ってきたわ。
GWはみんな何してたの?
スワミィも結局、いろいろ、あちこち行っちゃった。超疲れた。
お外にまで行っちゃった・・オフショアよ❤あは。
どこえ言ったかは教えない。でもベトナムの女の子とお友達になっちゃった。今日もフェイスブックよ。
ベトナム語って面白いね。ついうっかり英語のように読みたくなっちゃうけど、全然、意味が分らない。
それと”婚活”もしちゃった❤あは。
CAちゃんが仕事先で見つけてきた男の子たちと管理釣り場と云う釣り堀みたいなところにみんなで出かけたの。
そこでは釣ったお魚さんをその場で食べられるのよ。素敵ね❤
スワミィ、釣りはあまり興味がないんだけど・・・そこは婚活だから我慢して、でも殆ど釣りもせず、ただ釣り上ったお魚さんを食べるだけ❤きゃ。
そのニジマスの塩焼きが超美味しいの~
男の子から”○○さんは、食べるの専門だねぇ・・・あはははは”って言われちゃった。
婚活じゃなかったら、その場で捌いて”塩焼き”にするところだけど、グッと我慢して
”○○さんが釣ったお魚さんが美味しんだもん❤きゃ”って大人の対応をしたわ。
我慢の甲斐もあって久々に手応えある婚活だった。
たぶん大丈夫よ、いつもどおり根拠はないけどあと2、3日たったら絶対に電話が掛ってくるわ。
もし、電話が無かったら・・・・自分から掛けようかな・・・いやダメよ。
腐ってもスワミィよ。向こうから喰いつかない限り、自分からは喰いつかないわ。おほほほほほほほ。
取りあえずエサだけはたっぷり撒いてきたから、そのうち喰いつくでしょう。
おほほほほほほほほほ
さて、今日はゆるゆるネタで終わらせようかと思ったけど、気合いを入れ直すためにもちゃんと書こう。
スワミィはGW中、遊び呆けて心理カウンセリングのことなんて忘れていると思っているなら大間違いよ。
1日25時間は心理カウンセリングについて考えているわ・・・ホントかな?
それでインターネットで面白い記事を見つけたの
スワミィ、この記事を読んだ時、”その通りよ!”って思ったわ。
最後の”ガンダム”の話はちょっと意味が分からなかったけど、兎に角いろんな病名、症状名をつけてカテゴライズして人を区別して排除するよね。この業界は・・・
問題は、そういう症状にカテゴライズされた人たちを”モグラ叩き”のように一人一人対応するのがいいのか?
根本的な問題の本質にメスをいれて、そういう人たちが生まれないようにするのがいいのか?
または、そういう人たちを区別せず受け入れる社会を作るのがいいのか?
つまりDVがトラウマになって、大人になって精神疾患などを患っている人がいるとしたら、
1.そういう人たちを個別に対応するのがいいのか(所謂、心理カウンセリングの範疇ね)
2.なぜDVが起きるのか?加害者(親)の状況に対してメスを入れてDVが起こらない社会を作るべきか。
3.または、そういう環境で育った人たちでも気にせず生きられる世の中を作るのか。
という問題。
1については、心理カウンセリング業界内で済む話だけど、2、3について政治や行政も関わってくるから容易に実現できることではない。
でも問題提起する意味はあると思うの。
そういう意味でこの記事を書いた人の意見はとても参考になるし、もっと広く理解されるべき意見だと思うの。
近代以降、人間はいろんなモノを手に入れたけど、その弊害や失ったモノもたくさんあると思うの。
例えば、”幸福”と云う価値観。これは近代以前には無かった価値観なの。信じられないでしょ。
中産市民階級が成長したことで、物質的に豊かになった人たちが物質以上のモノを求めるようになって生まれた価値観なの。
暗黒の中世時代には、”幸福”を追求するという価値観は無かったのよ。
近代社会が”幸福”と云う価値観を手に入れたことによって、必然的に幸福な人とそうじゃない人の区別も生まれた
”幸福”とは何か?なんて何の決定的な定義もないけど、不思議と自分が”幸福”であるか否かの区別だけはできる。
よく”自分が幸福だと思ったら、それが幸福だ”なんて言う人いるけど、その考え方が現実的に機能しているのなら、誰も幸福なんて追求しないと思うの。
みんなそれぞれ納得した幸福を手に入れれば、幸福に考える人はいないと思うわ。幸福だと思うだけで幸福なら、それぐらい悩まなくて出来るでしょう。
理屈は正しくても現実的には機能していないから、みんなそれぞれ勝手な幸福について悩み追求している。
そういう意味では”幸福とは、幸福について考える必要が無い人”のことよ。”幸福”についての価値観が無かった近代以前の人たちは、若しかしたら、本当に幸福だったかもしれないわ。
”自由”とか”平等”とか”公平”とか…それらも全部、近代以降に”発明”されたモノ。
しかもそれらはすべて”正しい”モノとして認識されている。ホントかな?
”自由”とか”平等”とか”公平”とかが発明される以前はともかく、現代社会においては、”自由”があるから”不自由”があって、”平等”があるから”不平等”があって、”公平”があるから”不公平”があるとまで考える人は少ないと思うの。
それらは対立軸にあるわけではなく、同位体にあるのモノよ。
誰もが”自由”に大学入試を受けることができる。
大学は”平等”かつ”公平”な試験によって受験者を選別する。
大学受験に失敗した人は、”平等”かつ”公平”な基準によって、”君はおバカさんだよ”と云う社会的レッテルを貼られる。
就職や昇進でも同じね。
仕事ができない奴とか無能とか、ある程度客観的に評価されてしまう。
可能な限り”自由”とか”平等”とか”公平”とかを追求すると、必然的にそれらから排除される人たちも生まれちゃう。
その人たちは、”自由”や”平等”や”公平”であることを求めるが故に、”不自由”や”不平等”や”不公平”な結果を受け入れざろう得ない。
もし職能カースト社会なら、将来の夢とか自分の可能性とかやりたいことが見つからないとか、よく現代人にありがちな掲示板にもよく書かれる悩みは生まれないと思う。
これらは”自由”であり”平等”であり”公平”な社会であるからこそ生まれる悩みよ。
”誰もが自由であることから逃れらない”
求めていなくても自由を与えられてしまう。平等も公平さも同じ。
それ故の状況だけは皆、等しく背負わされてしまう・・・
哲学者のサルトル君は、”人間の本性”というモノを否定したの。(調子に乗ってフロイト君まで否定しちゃった…)
人間の本性とだと思われているモノ…天才、秀才、凡才、バカや性格や創造性や芸術性…そういう物はすべて社会的状況によって生み出されたモノだと断言したの。
つまりその人本人が持って生まれたものではなく、社会的状況との関わりにおいて生まれるモノだと云うこと。
美人やブスも同じ。
内向的な性格も外交的な性格も同じ。
人間の本性は客観的、かつ、普遍的な資質ではなくて、社会的状況から対象化されたモノだということ。
だから社会的状況が変われば当然、その評価も変わってしまう。
例えばアインシュタイン君。20世紀最大の天才物理学者だけど、もし、彼が彼の頭脳を持って無人島で生活していたとしたら…
誰一人として彼の天才性について気付く人はいないと思うの。彼自身でも気付かない。
どんなに天才でも無人島で生きる限り、天才でもなくバカでもなく人間でもあり得ない、タダのモノと同じになってしまう。
そこまで極端でなくても、アインシュタイン君が生まれる時代がちょっと早かったり遅かったりしただけで、彼の天才性を認める社会的状況が用意されていないかもしれない。
早ければ全く理解されず、遅ければ他の誰かが”アインシュタイン君”になるだけ。
そうなると彼はちょっと頭の良い普通の人で終わるかもしれない。
アインシュタイン君は客観的に天才というわけではなくて、あくまで社会的状況から対象化された天才だということ。
もし仮に客観的にアインシュタイン君が天才だったら無人島でも相対性理論を完成させたかもしれない。
例え無人島で相対性理論を完成させても、それを認める人が居なければ全く無意味なもので、やっぱり彼の客観的天才性を証明することにはならない。
アインシュタイン君の天才性は、それを受け入れられる社会的状況がないと成立しないモノなの。
これは自分の存在は自分が認識できるモノではなくて、自分を対象化する他者によってしか自分を認識することができないということなの。
意味わかる?
アインシュタイン君が無人島で生まれたら(この表現は変だね、こういうのを形容矛盾って言うのよ)、天才でもバカでもないように、美人もブスも、内向的な性格も、外交的な性格も、対人恐怖症も、アダルトチルドレンも、機能不全家族も、アスペルガー症候群も無人島で暮らす限り、誰からも対象化されないからそれを認識することができない。
言い換えれば、それらを対象化する他者が存在しなければ自己対象化できないの。
または、対象化する他者が存在するから自己対象化される。
”機能不全家族”で育った人が”他者”から”機能不全家族で育ったアダルトチルドレン”と対象化されてはじめて”アダルトチルドレン”と自己対象化されるの。
”機能不全家族”だから”アダルトチルドレン”になるわけではないのよ。勘違いしちゃダメよ❤
いや私は本を読んで誰にも相談せず関わらず自分でACだと気付いたという人は、”本”と云う”他者”によって自己対象化したの。
”他者”とは”他人”と云う意味ではなくて自己を認識させる存在と云う意味だから必ずしも”人”あるとは限らない。
人間社会に生きて、人間社会に関わる限り、本人の本意、不本意に関わらず何らか対象化が社会から要請される。
誰一人としてその社会的状況の対象化から逃れることができない。
どうしてもその対象化から逃れたい、認め難いと云う人たちは、誰からも対象化されない無人島に向かうしかない。
それが”引き籠り島”だね。
でも、それでも逃れられない。
不本意な対象化から逃れられても”引き籠り”と云う社会的カテゴリーに対象化されるだけ。
必ず何らかの自己対象化が要請される。それが所謂、現代社会そのものだと言ってもいいわ。
現代社会とは本人の意に関わらず常に自己対象化が要請される社会とも云える。
と書くと、スワミィはその”対象化”について当然の事だから受け入れるべきだと言いたいわけじゃないのよ。
引き籠りなんてやめてお外に出ようとは言うけど、引き籠りの原因となった社会的状況による自己対象化について全面的に認めなさいと言っているわけではないのよ。
寧ろ逆でスワミィが一番言いたいことは、その”対象化”の妥当性について検討すべきだと云いたいのよ。
現代社会にある様々な状況によってカテゴライズされ、対象化され、排除される人たち。
その前提となる社会的状況による対象化ついて客観性、普遍性があるのか、吟味する必要があると云いたいの。
例えば、”美人”。
スワミィは、”美人過ぎる心理カウンセラー”だけど(久々に書いたわ❤)、美人、ブスなどの社会的価値観をフェミニンな人たちは頭から否定するけど、人間が”美”を求める”社会的状況に基づく本性”はあると思うの。
問題は、その”美”そのものが普遍的なのか?ということよ。
100年前、1000年前の日本人の”美人”と現代の”美人”の基準は当然違うでしょう。
時代と共に”美人”の基準も変化する。
それだけでも”美人”には普遍性が無いで終わりにしてもいいんだけど、さらに突っ込むと現代の”美人”の基準にたぶんにヨーロピアンな感性が刷り込まれていると思う。
それは妥当なのか?という検証。
何故にヨーロピアンな顔が美人なのかと云う妥当性について検討もせず、無謬的に受け入れる社会的状況は問題だと思うの。
どちてなの?
そういう社会的状況を受け入れる本質的な”社会的状況”についても考えるべきだと言いたいの。
例えばタイ王国では、美人と云えば色白で中華系の人を指すの。テレビや映画スターの大半は中華系タイ人なの。
それは支配層、富裕層の大半が人口比率では2割程度の中華系タイ人で占められているから、その中華系タイ人の美人の基準がタイ人全体の美人の基準になっている。
つまり2割程度の特権的な人たちの価値観をテレビや映画でひたすら垂れ流して、その状況から生じる自己対象化は妥当なのか?と問われれば君ならどう答える?
日本でも当然、同じような状況があると思うの。
一言で云えば欧米コンプレックスね。
ギリシア彫刻の”ミロのヴィーナス”のような顔立ちが美しいと共感するのは、それこそ認知の歪みよ
例え60億の全人類が”ミロのヴィーナス”を美しいを認知したとしても、”ミロのヴィーナス”が客観的、かつ、普遍的に美しい顔なのか決定する何の考慮にもならないと思う。
それは例え60億の全人類がある人を”神”だと認知したとしても、その”人”は絶対に神ではないこと同じ理屈。
分かるかな?分かんなくてももいいや❤あは。
それじゃ欧米人のような顔立ちが美人の基準ではなく、日本人独自の美人の基準があるのか?と問われれば、答えは超簡単。
そんなものあるわけがない。
欧米人だって欧米人の普遍的、客観的な美人の基準なんてあるわけない。
そもそも無いモノを有るモノとして認知しようとするから、認知が歪んでいると言われちゃうのよ。
自己対象化も同じで、社会的状況によって自己対象化したとしても、そもそもの社会的状況が歪んでいるとしたら、それに基づく自己対象化も当然歪んでしまう。
歪んでいる人が歪んでいる人に対して、”君、歪んでいるよ”と云っても説得力ないとは思ないのかな?
そもそも歪んでいるから気付かないか。
以前、摂食障害のレポートを読んだ時、摂食障害は食糧事情の豊かな先進国にしかみられない精神疾患だと書かれてあった。
アジアやアフリカなどの食糧事情が豊かだとは言えない国々では殆ど見られない現象なんだそうよ。
先進国で生活する人たちの中で様々なストレス要因を食べ物で解消していると云う訳。
それも食べ物が非常に身近でお手軽で、かつ、身体に致命的なダメージを与える余地も少ないからある意味安心して選択している。
食糧事情が豊かでない国の人たちは、食べることはイコール生きることだから、摂食障害になったら身体に致命的なダメージを与える可能性があるから選択したくてもできない。
もし死にたいのなら摂食障害のような時間もお金も掛る方法ではなく、もっと直線的な方法を選択すると思う。
ウォールストルートジャーナルだったかな?
現代の食品メーカーは嫌でも食べるよう仕向ける社会心理学を利用した包装、広告を行っていると記事を読んだことがあるの。
どうすれば食欲をそそる宣伝になるのかなんて当たり前で、食品の包装の仕方、開けやすさ、食べ易さなど社会心理学の原理を総動員して食品開発を行っているそうなの。
これを読んだ時、食糧事情が豊かさだけでは先進国にだけ摂食障害の精神疾患が多いという説明には足りなくて、そもそも摂食障害に向かわざろう得ない状況を食品メーカーが作りだしていると思うの。
食品メーカだけじゃなく、24時間いつでも美味しいモノが手に入るコンビニやレストランも同じ。
つまり摂食障害になる社会的状況があって、それが先進国の場合、政治や経済にがっちりビルドインされているから、一方で心理カウンセリングや薬学療法で症状の改善を試みても、一方では社会的状況から摂食障害を供給、継続される経済的圧力がある。
テレビ付ければ、”買え、買え、買え”、”食べろ、食べろ、食べろ”ってコマーシャルされて、24時間コンビニで食べ物を手に入れられる状況があって、しかもそれらが心理学的に誘導されているのだから、社会的マッチポンプ状態なのよ。
かと言って、CMやめろ、食品開発に心理学を利用するなと云っても、それは経済的な死を意味するから、社会的にも経済的に受け入れられない。
結局、”もぐら叩き”のように一人一人個別に対応するしかないという心理カウンセラーさんだけが大喜びというオチで終わり。
なんじゃこりゃ?
書いていて虚しくなった。
関係ないけど、以前、掲示板で摂食障害に対して薬学療法を勧めているお医者さんやカウンセラーさんがいたけど、
2012年の『摂食障害国際ジャーナル』誌の報告(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22733643)では、摂食障害にはいかなる薬物治療の効果が示されていないわ。
そもそも脳科学的な原因が分かっていないから、効果的な薬学療法があるわけない。殆どお医者さんは効果の有る無しに関係無く抗うつ剤を提供している。
勿論、お金儲けの為と云うわけではなくで(そういう人もいるけど)、プラシーボ効果を期待して与えているの。
だから摂食障害はココロの病気ではなく、カラダの病気だと言っていたお医者さんはお勉強した方がいいわよ。
なんだか休み明けだから調子が出ないからこれで終わり
スワミィより❤
休むと疲れるね・・・
なんでだろう?
年なの?ウソぉ・・・いやん。
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