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月間アーカイブ: 8月 2013

キャスト アウェイ

 

読みに来てくださる皆さま、こんにちは!

楽しみにして訪れてくださる事、本当にありがとうございます。 

 

ところで・・・最近少~しあわただしく、時間に追われるようになってきてしまいました。 またこういう時に限って、重複して、こなさなくてはならない色々な用事ができてきたりするものですね。

ブログの更新の頻度が、少し落ちてしまいそうです。 ごめんなさい。

 

ですので今回は、私の好きな映画と、俳優さんなどのご紹介などをしてみようかと思いました。

 

好きな俳優さんを思い出そうとして、いちばん先に浮かんでくるのは、アメリカの名優、トム・ハンクスさんです。

人間としても、本当に好きです。 彼のおかげで、私は映像の世界で表現される心のアート、映画のすばらしさを再認識しました。

 

ハンクス氏の主演作品の中では、『キャスト・アウェイ』 という作品が最も好きです。

それはこんなストーリーです。

 

配達される物と、それを配達する人たちの管理の仕事、世界宅配便のシステムエンジニア、チャック・ノーランド。 早期配達に生活のすべてをかけ、私的な時間も常にポケベルの呼び出しに自分を合わせて生きている。

そのチャックが、ある日思いがけない飛行機事故に巻き込まれ、たったひとり生き残り無人島に流されてしまう。 そして、それまで彼を支配していた全ての制約のない世界に、突如として置き去りにされる。

海岸で、最初はただ途方にくれているが、時間の経過と共に、今この状況を脱するのは不可能だという事がはっきりすると腹を決め、ただ生きるためだけの努力を始める。

たったひとつ、手元に残ったのは恋人の写真の入ったロケット。 たまたま彼といっしょに岸に流れ着いた漂着物の中に、バレーボールがあった。 それは彼の宅配会社を通して誰かにプレゼントされようとしていた、飛行機の中の貨物だった。 腹立ちまぎれに、たまたまそれを投げつけようとつかんだ時、自分のケガをしていた手の血がついて、それが偶然顔のように見えたので、チャックがもっと工夫して本当の顔のように描き直した。 それが絶望的な孤独の中の、たった一人の友人で話し相手となる。名前はウィルソン。

その無人島での、終わりの見えない、サバイバルの生活が始まるが・・・。 

 

 

続きはどうぞ、映画でお楽しみくださいね。

 

かつて、(もしかしたら、今もご活躍中でしょうか?)映画評論家の木村奈保子さんという方が、テレビロードショーの最後に作品解説と共に、「あなたのハートには、何が残りましたか?」 と視聴者に問いかけていらっしゃいました。

この映画は、それぞれの人の心に、大切な何かを残してくれる作品だと思います。

 

そして他に、最近見たのが、(今年に入って数年ぶりに、いろんな作品を続けて見ています) 『英国王のスピーチ』という映画と、『私の中のあなた』 という二つの作品です。

私が映画のDVDを借りにいく場合、いちおう目当ての作品があるにはあるのですが、なぜかそれが見つからず、(昔の作品だったりすることもままあり) なぜか引き寄せられるように、目が一点の、ある作品のタイトルにパッと焦点が合ってしまい、(どういう引力かは分かりませんがそういうものが働いて)、その作品を借りてきて、そういう作品は面白くなかった事がありません。

 

英国王のスピーチは、今の私のこの仕事とも共通項があり、とてもおもしろかった! 国王の奥様、つまり妃殿下を演じていたのは、『ハリーポッター』シリーズの中に、悪(わる)魔女ベラトリックス役で出てくるヘレナ・ボナムという女優さんでしたが、私は最初、彼女が王妃を演じている事がわかりませんでした。 立ち居振る舞いから雰囲気から全然彼女と分からず、演技の卓越した役者さんの真骨頂を見た気がしました。 そういえば、ハリーポッターの中でも、ハーマイオニーがベラトリックスに変装する・・・というシーンがありましたが、確かに外見は、魔法でベラトリックスに変身しているのに、しぐさや雰囲気から中身がハーマイオニーと分かりましたっけ!(それを演じているのはもちろんヘレナさんです)

 

それと、もう一つ、『私の中のあなた』。 原題は『my sisters keeper』です。 これも本当に感動した映画です。 観る事ができて良かったと、心から思いました。

また他に今年観たのは、『ハート・ロッカー』。 今も世界のどこかに必ずある戦争や内紛などの問題を、軍としての当事者でありながら、それを間接的に観ている人の心理の内側から描こうとした作品で、この世の中の出来事はすべて、実は自分と何らかの関わりがあり、けっして看過したり人事で済ますことは、本当は誰にもできない・・・。 

どこに暮らそうとも、そういう事実から目をそむける事のできない、主人公の一人の男の心の深い闇・・・深淵を、見事に描いた作品だと思いました。

 

まだまだ秋の夜長には遠い季節ですが、心の栄養と充電のために、すばらしい映画を観るのはやはりいいものですね!

 

 

 

私は見た!

 

 タイトルだけ見ると、今が夏だけに、一体全体何を見たの!? と、ある種の戦慄? を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、もともと怖~い話が苦手な私は、そういう体験はあっても人様には語れないので、どうぞご安心くださいね。

 

私が見たのは・・・とても神秘な、空の雲です。

 

星座占いが好きな私は、昼・夜となくいろいろな場所で空を眺める事が多いのですが、ときおり私の言葉ではとても形容のできない、美しい空を眺められる事があります。 雲のふちが、淡く虹色がかっている彩雲。 からりと晴れ渡った夏の日の、刻々と変化していく夕暮れの空。 長野県の山の上で見た、濃紺の空に、まるで、ちりばめられた無数の宝石が光り輝いているような星月夜。そして、糸を引くように流れて消える流れ星・・・。

 

8年前の9月の昼下がりに見たそれは、神様のいたずらとしか思えない神秘な雲でした。

その日の空は、澄んで晴れ渡っていました。 坂の下から見上げた空はみずみずしい水色で、夏の終わりが近い事を感じさせていました。

 

そのころ住んでいたアパートの横には、すぐそばに善福寺川が流れていて、川の所がその辺り一帯のいちばん低い位置になっており、川を背にしてそこからまっすぐに、街道に向けてなだらかな上り坂が続いていました。

 その日は休日で、出掛けようと、昼間から子供と二人でその坂を上っていました。 そして、坂の途中の小さな十字路に差し掛かり、私は車の往来を確認するため左右を見、ついでになんとなく空も見上げました。 

 

すると・・・!

 

なんと真っ白な雲で書かれたアルファベットの文字が、目の前の空にくっきりと現れていたのです!!!

私は最初目を疑いましたが、何度見直しても、自分の腕をつねってみても、そこには現前と雲の文字が並んでいました。

 

それはどんなふうだったかというと、やや四角張ったアルファベットの大文字の字が、すぐ近い空に8文字くらいで、一つの単語のつづりのように横に並んでいて、そのすぐ横に少しの間を開けて、全く同じ字の並びがもう一列ありました。

(当時小学校1年生だった)娘と、二人でもう大騒ぎして、なんとかそれを携帯のカメラに収めようとがんばりました。 が、なぜか写しても残せなかった。 私は相当のメカ音痴で、そのころ皆に追いついて1年前くらいにやっと買った携帯の操作がほとんどできず、何度もシャッターを押すには押すも、その後の操作の仕方を知らずにせっかく写した写真を破棄してしまったりして、どうしても記録に残す事ができませんでした。

まるで、神様が証拠の記録を残すのを嫌がっているみたいに、指の動きが勝手に破棄のボタンの選択をするのです。

 

その神秘な雲の字は一瞬で消えたわけではなく、雲の形ですから数分の間ゆっくりと形を変えながらそのまま空にとどまっていました。 風もほとんど無い日だったので、うっすらと見えなくなっていくまで、数分間はそのままの形を保っていたのです。

その間に、娘の同級生の友達とお母さんというペアが二組、別々に坂を上って来て、私たちの横を通り過ぎて行きました。 私たちがあわてて空を指差すと、「へえ~ほんとだ、アルファベットだね。 きっとレーザー光線か何かで描いた雲の字なんだね」と、興味深く見てはくれるものの、それ以上は関心が持てない様子で、通り過ぎて行ってしまいました。

 

 

でも私は知っていました。 レーザー光線で雲の文字を描く技術など、まだこの世には無い事を。

 

それがもし仮にあったとしても、そうやって描いたものなら描いた順番の早い方から薄れて消えていくはずです。 その時描かれていた8字ほどの、横に並んだの二列の文字は、同じ時に浮かび上がって、そして同じ時に薄らいで消えていったのです。

 

見上げた時にあったのなら、なぜ同じ時に浮かび上がって来たと分かるの? という疑問が浮かぶ方もいらっしゃると思います。 それは最初浮かんでいた字が消えた後、また少しだけ斜め上の違う場所に、同じようなアルファベットの文字の並びが、同じように横に二つ並んで、浮かび上がって来たからです。

なぜ私が、その字がどういうスペリングだったと記憶できなかったかというと、たとえば、「HAPPINESS」 や、「DREAMING」といった単語なら、つづりの読みの流れというか、アルファベットのつづりの発音の流れでなんとか記憶できたのかもしれませんが、浮かんでいた雲の文字はABCDEFG・・・みたいなばらばらな、単語としては成立しないような字の並びで、スペリングとして記憶に残せなかったのです。

 

不思議な体験談を本や何かで見聞きするにつけ、自分の体験でないものはどうしてもその中に、「それって本当かしら?」と、疑問に思うものが残ったりする時がありますが、私のこの、本当の体験談を、皆さんはどうお感じになるのでしょうか・・・。

 

 

私にとっての、天使の存在

 

前回途中になってしまった、天使のお話の続きです。

これは私の、天使といわれる存在についての考えです。

 

人が生きるという事は、LIVING(日々の暮らしや、生計を立てる) のためではないと、ある神様がおっしゃっていた。

 

私たちは輪廻転生する時、次はどんな人生を送るのか、それを下見し、宿命や運命とするものの中にある程度、自分の希望も反映させて、その大体の青写真を決めてから、縁ある人の下へ生まれて来るのだという。

宿命とは、私たちが、自分自身として生まれついている事であり、生涯にわたって変えることのできないものの事をさす。

運命とは、私たちの自由意志というものも含まれ、生じてくる出来事の部分は過去からの因果により、またはこの人生での、自分の今までの行動の結果として決まってはいるものの、その結果を受けて、その時私たちが、どのような次なる行動を選択していくのかという、まさに自由意志によって選び取る事のできる、私たちの命運の、舵取りの部分も含まれる。

 

そう・・・過去からの行動の結果は引き継がれる・・・。

それは過去世退行催眠を、今生での、ある癖(へき)や、依存症などに苦しむ方が受けると、こちらもよく分かる。

そういう方はたいてい、思い出すいくつもの過去世に渡って、同じ弊害に苦しんでいらっしゃるからだ。

だからこそ、今度こそそれをこの人生で克服すべく、あるいは、少しでも乗り越えるために、また同じ問題を状況設定して、あるいは引き継がれた因果として取り組んで行く。

 

それとは別の理由で、今生での自身の霊の成長や学びのために、さまざまな種類の肉体的制約あるいは制限を自分で設けて、生まれてくる場合もある。(魂の状態の時に自分で決めて、ハンディキャップを背負う、などして。 あるいは、克服すべき課題のために、その試練を与えてくれる両親や兄弟となる家族の所へ)

 その人なりに千差万別の理由があり、さまざまな、あらゆる条件付けの元に私たちは生まれて来る。

 

自分がこの人生でどんな困難に出遭い、それらの出来事を通してどんなカルマの解消をするのか、あるいは霊の成長を望むのか・・・。

 しかし、困難な問題や難題の克服が、計画通りにうまく運んでいく事は、たいていの場合少ない。

なぜならそれによって生じる人の心や肉体の痛みは、常に計画通りの結果を導き出す科学反応式とは違う。 生身の私たちはそれによって、予測のつかなかった混乱や苦痛にほんろうされる・・・。

  

天使と言われる存在は、思いがけない幸運を運んできてくれたり、突然予測のつかない事態に巻き込まれたりした時に奇跡的に助けてくれるというよりも、(そういうことはもちろんあるが) 悲しみや苦しみのときに寄り添い、時には後から気づくように手助けし、そっとしるしを届けてくれて、いつも私たちをなぐさめ勇気づけてくれる存在だと、私は感じている。

その方が、私にとっての天使の存在に近い。

 

自分の努力だけではどうしようもなくなった時、おそらく私たちはみんな、目には見えない崇高なものに対して、無意識のうちに祈り願っているのではないのだろうか。 

 

期待や願いは、かなわない事もあるだろう。 むしろその方が多いと言える。 天使や天界からの介在は、自分に都合のいい魔法の杖ではないからである。 私は経験上、いやというほどそれを味わったので知っている。でもやっぱり、願ってしまう。 そしてそれでいいのだと思う。

 

信じる心と信じる気持ちを、持ち続けていたい。 もしどうしても持てない時には、無理して持とうとしなくていい。 心の中でどんな悪態をついたって、天使はなぜ今その人がそんな気持ちになっているのかを知っていて、何も責めたりはしないのだから。 

 だから、捨て鉢な気持ちを、何かに対して行動に移してはいけない。 もちろん自分にも。

あきらめてはいけない。 一度や二度やってうまくいくくらいなら、もともとそんなに大きな問題ではなかったのだ。 

 もし、どうしてもそういう気持ちから離れられない時は、外に出て空を見上げてみよう。 そうできなければ目を閉じて、今まで見た中で、いちばん美しかった空を、思い描いてみよう。

 

どんな空が、見えた?

 

 

人は悲しみや苦しみをこらえて一心に祈るとき、あるいは誰かの幸せを真に願う時、その祈りや願いは必ず、天使や神の存在に届くという。

それは、すべての私たちに与えられた、天界の存在からの、人としての権利であるという。

そして何度となく立ち上がってまた歩を進めようとする人を、天界の存在は放ってはおかない。 

私たちはいつだって、本当は見守られ、助けられているのだから・・・。

 

 

夢の世界

 

お菓子の世界は、私の夢世界。

お菓子にまつわるいろいろなエピソードを考えていると、あるいはそれに触れていると、それだけで私はとても元気が出てくる。 理屈じゃなく、心底好きだからだと思う。

お菓子の歴史、その多彩な味の世界・・・。 

 

この世に数あるものの中で心底から好きな事を考えるとき、きっと人はいちばん目が輝き、生きている喜びにひたれるはずだ。

 

たとえ今それが目の前になくても、心だけは自由に、その世界の冒険を楽しむ事ができる。 それは他の誰かがどんな手段を用いても邪魔する事のできない、絶対領域である。

地位やお金のあるなしに関係ない、自分ひとりの聖域。

 

むか~し昔、自分が子供だった頃に好きだった事はなんだろう? それを思い出してみよう。

子供の頃に好きだった事やものは、自分の原型である。

だから大体、無理してそれを好きだと思う必要が無かった分、純粋にその人自身の素直な、いちばん輝ける、ある側面を表している。

 

今やっている仕事や家庭生活、子供の事に付随してくる親としてのお付き合いなどに疲れていたら、一度むかしの自分をじっくりと思い出してみよう。

きっと、またここからやって行こうという元気がわいてくる。