サロン案内

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現在、以前までのレンタルサロンでの営業ではありません。ご予約時に場所のご相談をさせていただきたいと思います。
営業時間
平日 午前10時~午後2時より、2時間30分。
その他の時間は都合がつけばお受けいたします。
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定休日:土曜日曜は、今のところお休みとさせていただいております。ご了承ください。

営業日のご案内

月間アーカイブ: 5月 2014

 レインボー (10)

 

 

病院に着くまでの間中、みちるさんの事だけが頭の中を巡っていた。 とても信じられなかった。 あの足が、彼女を走らせていたあの足の片方が、もう無くなってしまったなんて!!  速く走るのが一番好きな事だと、笑顔で言っていたのに・・・。

 

エレベーターを降りて、病院の廊下をすべるように急ぐ。 何度か誰かにぶつかりそうになるのを危うくかわしながら、受付で教えてもらった彼女のいる病室の番号を、やっと探し当てた。

ドアの前で深呼吸して息を整える。 静かにノックすると、ひと目で彼女の母親らしいとわかる女性が、中から姿を見せた。

彼女は、出て来るとそっとドアを閉めた。 向き合った僕が、

「突然に失礼いたしました。 銀林と申します」

と、一礼すると、彼女は、

「みのるから連絡があって、もしかしたらあなたが来られるのではないかと聞いておりました。 みちるの母です」

と言って会釈された。

 

彼女はそのまま僕を見て、言葉を継いだ。

「せっかく来ていただいたのに申し訳ないんですが、今はまだ熱が高くて眠っております。 おとといやっと目が覚めて、普通の病室に移されたばかりで・・・」

黙ってうなずく僕に、彼女はまた言った。

「ですから、あとしばらくは、来てくださっても会っていただく事はできません。 ・・・きょういらしてくださった事は、ちゃんとみちるに伝えておきますので・・・」

突っ立ったまま呆然とうなずく僕に、

「本当に、ごめんなさいね」

と、すまなそうに頭を下げると、また中に戻ってそっとドアを閉めた。

 

僕は、隔てられたそのドアを少しの間見つめていたが、ハッとしてまた、廊下を引き返して歩き始めた。 足がとても、重く感じる・・・。

 

気が付くと、無意識でもちゃんと、電車に乗って自分の駅まで引き返して来ていた。 ホームを通り抜け、ふらふらと改札を出る。

「僕に、一体何ができるっていうんだ?」

自問したところで、何の答えも見つからない。

 

それからの毎日、僕はこれまでになく、勉強に身を入れ始めた。 それは突然人が変わったのかと思うほど。 不安定な自分の気持ちを持て余すのはごめんだったし、それは僕が僕でいられるための、ただ一つの手段だった。

 

そしてまた、一人で走り始めた。

走るって、何だろう?  僕は初めて考えた。 やめたらそこで、止まってしまう。  苦しくても今は、それをやめるわけにはいかない。

 

 

ひと月ほどが、そうしてじりじりと過ぎて行った。

 

彼女には、2日と開けずにメールを送っていたが、返事は無かった。 その日の僕の出来事を、ひとつふたつ並べて送っただけのものだったから、返事のしようがないと言えばそれまでだが、今の僕にできる事といったら他には何も思いつかなかった。

 

その日も、いつものようにケータイに手を伸ばした。 するととたんに、メールの受信音が鳴った。 悪友どもの事が浮かんで、期待もせずに開けてみると、それは思いがけずみちるさんからだった!

『銀林くん、お元気ですか? わたしの事情を知った時に、すぐにお見舞いに来てくれたこと、母から聞いていました。 ありがとう。 今まで連絡できずに、本当にごめんなさい。 いつもメールをありがとう』

 

・・・やっと連絡がついた安堵と共に、じんわり涙が出そうになる。

もう面会に行っていいのかどうかと、彼女に返信すると、笑顔の顔文字の返事が来た。 今度の土曜に行くからね、とまた返したが、それには返事が無かった。 彼女がたぶん、いろいろな事を考えているのは想像がついた。 だが、僕はただ心配だった。 そして何より、心の底から彼女に会いたかったのだ。

 

土曜日。 病室のドアをノックすると、はい、と彼女の声で返事があった。

「銀林です」

そう言って、そっとドアを開けた。

 

 

 

 レインボー (9)

 

朝からピーカンだ。

きのう開会式を終え、インターハイはきょうから各種競技の試合が始まる。 陸上競技は男女とも、きょう100メートル走がある。 もちろん、みちるさんも走る。 僕は家のテレビで応援するのだ。

いそいそと2階から下りて来てテレビをつけ、チャンネルをケーブルテレビの局に合わせた。 フローリングの冷たさに涼を求めてごろごろと寝返っているピップと目が合う。 フン、という感じでまた反対の方に寝返る。 かわいげの無いやつだ。

 

彼女は10時から始まる予選の、第6組3コースだと知らされていた。

第1組、ゼッケンをつけてコースに並んでいる選手が、端から紹介される。 緊張した面持ちで、それぞれが手足を動かしてウオーミングアップをしている。 皆早そうに見えるが、それぞれの都道府県代表なのだから、そう見えて当然と言えよう。

 

着々と予選の順番が消化され、次はみちるさんを含めた6組だった。

パーン! というスタートの合図と共に、いっせいにきれいなスタートを切った。 「よし! がんばれ!」 と思わず大きな声援を送るが、それはむなしく部屋に響いた。 あっという間のゴールと共に、まもなく結果が掲示された。 彼女は1着だ! タイムも悪くない。 出だしとしては上々だ。

その後の予選でも1、2着を続け、次の日決勝まで進んだ彼女はそこで敗れた。 あと一歩だったのが本当に残念だったが、彼女の走りはとてもきれいで感動的だった。

僕は生涯忘れない。

 

 

 

 

 

 

それは突然訪れた。

 

何も連絡なく、週末のランニングの約束を2日も続けてすっぽかすなんて、彼女には考えられない事だった。 それに、今週は一度もメールが来ていない。

僕からしても、返事が来ない。 日曜日、一人で走り終えて帰宅した後、心配になって初めて彼女の家に電話してみると、受話器の向こう側からみちるさんとよく似た声で名乗ったので、てっきり彼女かと思った。

「あっ、ごめん・・・。 銀林です。 きのうもきょうも来なかったから、ちょっと心配になって・・・」

 

その言葉がけに対する一瞬のためらいのようなものが感じられて、僕の中に電話をかけてしまった事を後悔する気持ちがよぎった。

だが、受話機の向こう側から続いた返事は、予想とはまったく別のものだった。

「銀林・・・さんですか? 私は妹のみのるといいます。 実は、姉は、交通事故に遭ってしまって・・・」

「ええっ!!」

「・・・今病院にいるんです」

思いがけないその言葉に、一瞬頭の中が白くなった。 電話の相手は、本当ならイギリスにいるはずのみのるさんだったから。

「それで、彼女・・・みちるさんは、大丈夫なんですか!?」

動転した僕が思わず大声で聞くと、みのるさんは重苦しそうに・・・それでもつとめて冷静に、事情を説明してくれた。

みちるさんが事故に遭ったのは、もう5日も前で、夕方、彼女が学校からの帰宅途中、信号が変わるギリギリのタイミングで交差点に進入してきたバイクが、左折しようとしたがスピードの出しすぎから曲がり切れず、スリップして転んだ拍子に、信号待ちをしていた彼女も巻き込んだのだという。

「姉は・・・姉は、左足が、もうダメだったんです。 手術するしかなくて・・・。 おととい初めて目を覚ました時に、銀林くんに会いたいって、私に・・・」

心臓の脈打つ音が、耳に直に聞こえるようだった。 頭がぐるぐると回っている。

 

みのるさんには、今行っても面会できないと言われたが、だからと言ってじっとしていられるわけもなかった。 病院の場所を聞き、急いで支度をする。

ふと、引き出しにしまってあるクリスタルの事が浮かんだ。 思わず取り出して窓辺に置くと、すっと、スイは目の前に現れた。 その顔には、いつもの茶目っ気のある笑顔は無い。

無言で僕を見ているスイは、何もかも知っているようだ。

 

「あなたがきっと、彼女の気持ちのいちばん近くにいられるわ」

そう言うと、右手を大きく回して、空中から何かを取り出した。

それはスイの体ほどの大きさの、白い木綿の袋だった。 差し出されたそれを受け取って、開けてもいいのか目で問いかける。 何だか手が震えながらも結び口のひもをほどいてみると、中には、風がひと吹きでもすればすぐに飛んでしまいそうな、小さな小さな種が入っていた。

「魔法をかけておいたわ」

そう、スイは言った。

「わたしは、あなたが自分の力でここを切り抜けるまで、手を貸すことはできないの。 ハートにメッセージを送るだけよ。 あなたが試されている時にはつらくても黙って見守る、それがあなたたちを助ける時のルールだから」

思わぬその言葉にとまどう僕の耳元に来て、彼女は言葉に力を込めた。

「あなた自身の中にある、内なる力を思い出して。 そして、わたしと話したいろいろな事を。 それがきっと、ふたりを助けるはずよ!」

 

 

 

 

 レインボー (8)

 

夏の太陽が、むき出しになった腕や肩を灼く。 きょうもきっと、晴天の一日に違いなかった。 朝だというのに、じっとしていても汗が出てくる。

伸びっ放しだった広場の雑草はきれいに刈られたばかりのようで、むせるような濃い草いきれの匂いが、わずかな風に乗って流れて来る。

きょう、みちるさんは来ない。 朝からクラブの打合せだと言っていた。

 

一人で走りに来たものの、やはりなんとなく気合いが入らない。 情けない話だ。

川沿いの歩道を前だけ見て、とにかく走り出す。 夜、時間のある時には、みちるさんに内緒で少しずつ走ってはいたものの、あとは週末ロングで走ってどうにか続けていた。 それでも2カ月ほどの間で、最初よりはるかに足が軽くなっているのがわかる。 次の一歩を踏み出す時の感じが、何か弾むようなのだ。

 

歩道わきに咲く、濃いピンクのおしろい花が、ほのかな甘い香りを漂わせてたくさん咲いていた。 夏の日差しに濃い色の花はよく映える。

最近になって、川に沿って点在する公園のあちこちに、子供の遊具に混じって、大人のためのストレッチ用の補助具がいろいろと備え付けられた。 ジョギングや散歩をしに来た人たちが、思い思いにそれにつかまって、ついでに体を伸ばしている。 市民が楽しんで健康づくりができるようにと手を貸すなんて、僕の住んでいる町のお偉方は、きっと人生に対してさわやかな発想というものができるのだろう。

帰りの道で、猫じゃらしの青い穂が、ゆらゆら風に揺れているのを見つけた。 ピップのために2本抜く。 あいつ、母さんがやさしいからといって、最近調子に乗りすぎだと思う。 少ししつけが必要だな。

 

家に着くと、母親はもういなかった。 キッチンのテーブルに、目玉焼きや他のおかずののったお皿の、ラップしたのがあって、その横にパンがある。

最近母は、以前からずっと習いたいと思っていたらしい、あこがれの先生のお菓子教室に通い始めたようだった。

「まだ最初だから、デコレーションなんかはしない、焼きっぱなしの焼き菓子なのよ」

夕方帰って来た母から、その日作ってきたというパウンドケーキを食べさせてもらった。 それはほんのりと洋酒の香りがしてスパイスの効いた、凝った味のフルーツケーキなのだった。 おいしかった。 僕にもわかる。 今までこんなの食べた事がないし、たぶんどこでも売っているものじゃない。 お菓子もきっと、奥が深いのだ。

 

その夜、母親のきょうの作品のケーキを少しお皿に用意して、スイを招いた。 現れた彼女はひと目見るなり、

「おいしそう!」

と目を輝かせた。 エスプレッソ用のカップについだ紅茶 (彼女にとっては巨大マグカップだったが。 スイは意外な力持ちで、自分の体の半分ほどの物でもなぜか難なく持ち上げていた) といっしょに、それを楽しんでいるスイから、きょうも彼女の世界のいろいろな話を聞く。

「わたしたちはふだん、今あなたとこうしているのとは別の次元にいるのだけれど、そこには時間と空間という制約がないの。 会いたいと思った相手にはすぐに会いに行けるし、行きたい場所へも、そこを思い浮かべた瞬間に、すぐに移動できるわ。 それに会話はみんな、テレパシー・・・そういうエネルギーのやり取りでするから、言葉が違うからコミュニケーションが取れない、なんて不自由なこともないのよ」

「へえ~っ!」

うらやましい気がする。 この世界でもしもその方法が使えたら、どんなに便利で省エネだろう・・・と一瞬思うが、この物質の世界では大体不可能だろう。 それに、旅の楽しさは・・・それに向けての準備や、移動も含めた楽しさでもあるわけだし、こちらはこちらで、よくできているのかもしれない。

いにしえに、自分の足や動物に頼ってしか移動できなかった距離は、それぞれの地特有の民族性や多様性を育んできたのだ。 やはり僕はこちら側に生きる人間として、この世界を愛しているのだな、と思う。 しかし、意思疎通の不自由さがなくなれば・・・それはそれで表向きの社会生活にとっては都合が良く、便利な事には違いない。 でも、言葉にできない想い・・・知られたくない考えは、どう隠したらいいんだろう?

そんな事を考えていたら、スイがやれやれという顔をした。

 

「そういえば、きみは花の精だけど、他にはどんな仲間がいるの? いろいろいるの?」

「ええ、たくさん」

そう言って、スイは大きくうなずいた。

「ありとあらゆる植物や自然の、妖精や精霊と呼ばれる仲間たちがいるわ。 それに火や光、水や風、およそこの世界を構成する要素であれば、必ずそれをつかさどって、その力を統制している存在がいるの」

「まるで、おとぎ話だね」

僕がそう言うと、スイは笑った。

「そう、『青い鳥』や『オズの魔法使い』 なんかの物語は、作者にこちらの世界の情報を受け取る回路があったのよ。 チャネルと言えばいいかしら。 あれはただの思いつきなんかじゃないの」

「すごいね。 なんだかおもしろい!」

 

僕は本当に感心していた。 僕たちの生きているこの世界が、気づいていないだけで、実はそうした異次元の世界とつながっているなんて!

そしてそれは、きっといずれは誰もが経験する事のできる世界であり、喜びなんだ。 そんな可能性を考えるとたまらなくわくわくしてくる。

もしかしたら、この事をたくさんの人が知る事は、隠そうとしてももはや隠しきれないほどに傾いてしまっている、今のこの現実の社会問題や自然環境を立て直す、一つの大きな可能性なのじゃないだろうか。

 

お茶を飲んでいたスイは、ひと息ついてまた言った。

「それから、わたしたち花の精がとくに力を注いでいるのは、花や植物の生命力を、エッセンスやエネルギーの形で取り出して、人の健康や治療に役立てる方法なの」

「アロマなら、たまに母さんが部屋の隅で、香らせていたりするけど」

「それが一番知られているし、一般的でなじみ深い方法かしらね。 エッセンスの成分を、香らせたり、オイルを通して体にすり込んだりすることで、軽い痛みや疲れを取るのよ」

それなら聞いたことがある。

「それともう一つ、この国ではまだ、アロマセラピーほどには知られていない方法なんだけど、花の持つ、波動のエネルギーを体に取り入れる事で、心身を癒すという花療法があるの。 エドワード・バッチ博士というイギリス人が、1930年代に初めて、花の精霊たちに導かれながら、人に用いることのできるエッセンスの形にしたのよ。 フラワーエッセンスという呼び名だけど、実際の作り方も使い方も、アロマのエッセンスとは全然違っているわ。 その説明は、またの機会にするとして・・・」

 

スイはカップのお茶を飲み干して言った。

「わたしたちはいつでも、チャンスがあればたくさんのことを知らせようと、人々の直観に働きかけているわ。 だから・・・これはすべての人に言えるのだけど、日常の中でふと浮かんできた考えや思いつきを、これは現実的じゃないとか、単なる気のせいとか思い直して意識の外に押しやってしまわずに、もっと注意を払ってほしいのよ。 そしてそこに、何かのメッセージがないだろうかと考えて・・・」

最後は独り言のようにつぶやくと、

「ごちそうさま。 とってもおいしかったわ。 じゃあまた!」

と、いつものように消えてしまった。

 

 

 レインボー (7)

 

すぐそこまで真夏が来ている事を予感させる暑さが、ここ何日か続いていた。

あれから一カ月が駆け足で過ぎて行った。

その4回の土日のうちの、2 回分のみちるさんとの約束は、1回は雨によって、そしてもう1回は、みちるさんのインターハイの出場権を得るための予選会によって流れた。

 

みちるさんとは会って話すたびに、ちょっとした事をよく知っている彼女の賢さにも驚かされたが、それよりも僕の気持ちは、さりげないやさしさや、うまくは言えないが、内側のひたむきな強さ・・・みたいなものにひかれて行った。 心がもっと、彼女に傾いていくのをを感じながら、なぜか彼女がそういう人だという事を、僕は初めからわかっていたような気がするのが不思議だった。

 

夜。

網戸を閉めて窓を開け放す。 夏の虫が鳴く声がする。

スイを呼び出そうと、窓辺にクリスタルを置いた。 とたんにそこに光の粒子が集まるように見えると、スイが部屋の中に姿を現した。

「お呼びかしら?」

「うん」

と、僕は言った。

「来てくれてありがとう。 でも、きみ、早かったね。 瞬間移動はルール違反じゃなかったっけ?」

スイはぺろりと小さな舌を出す。

「いいのよ。 きょうは一日めいっぱい働いたんだから」

そう言って飛びながら、くるりと僕の周りを回った。

そんな彼女の様子を見ながら、ふと思った。 スイとの間には、不思議と最初から、ほとんど遠慮や気がねというものがなかった。 何だか身内みたいというか。 相手が人間じゃないから・・・という事でもない気がする。 もしかすると、彼女の方もそうなんじゃないだろうか。

「きみとは、昔からの友達みたいな気がするよ」

唐突な僕のつぶやきに、スイはこう返事した。

「あら、昔っからの仲良しよ。 たぶんね」

事もなげにそう言って、ウインクする。 体は小さいが、いつもクールで何か頼りになる存在。

 

「ところで、今きみが学んでいる事を、よかったら僕にも少し話してくれない?」

そう問われて、スイが話し始めたのは、『ヒーリング』する事の、意味と大切さ、についてだった。

「悲しみや苦しみが長引くと、人はだんだん生きようとする力・・・生命力が弱くなってしまうわ。 心は目には見えないけど、体と同じように疲れたり病んだりするし、それに心の在り方は、いつでも直接体の健康に作用しているわよね。 だから、体と同じように、心もヒーリングして、ケアする必要があるの」

そして、こう言った。

「いろんな場合があるわよね。 心の痛み・・・。 たとえば、自分の心が痛んでいても、それを意識したり、どういうことなのか理解できないでいる人たちもいるわ。 幼い頃から自分という者の大切さを、身近にいる大人に教えてもらえなかったり、時には大切だと感じることも許されずに、大人になってしまった人が。 子供の頃そうだったように、自分が感じた欲求をあきらめから表現できずに、胸の奥に隠したり、しまいこんだりしてしまう。 その部分の心の成長・・・時間が、そこで止まってしまっているの。 そういう人はたいてい、自分を大切にしたり、尊重するということがどういうことなのかわからないし、人間関係がうまくいかずに苦しんでいることも多いわ。 解決策が何なのか、わからないのよ」

 

スイは小さく息をついた。

「大いなる、自然の受容。 そのうちの、何かの方法を提供すること。 考えとして理解するのが難しくても、時代を超えて変わらない、普遍の愛情を感覚で受け取ることは誰でもできるし、絶対の方法なの。 そうして、自分という存在の深い場所、魂で、自分が本当に価値ある、この世でたった一人の大切な存在だと感じることができれば、そこからまた、新しく生き直せるわ。 その手助けが、わたしの学び」

 

そう言ったスイの体が光りだして・・・彼女の周囲も光を増して輝き始めて・・・どんどん大きな、抱えなければ持てないほどの、美しい金色に輝く光の球体になった。 その精妙にきらめく光のたまは、僕がだんだんスイの事を心配し始めるのと同時に小さくなって行き・・・元のスイがその中にいた。

 

「ああ、もう。 どうなっちゃったのかと思ったよ!  でも、・・・うまく言えないけど、何だかわかるような気がするよ。 きみの気持ちが。 僕は医者になりたいと思ってるけど、病気を治す手助けをする事で、心の重荷も外してあげられるような、そんな医者になりたいと思う」

スイはお姉さんみたいな笑顔でうなずいた。

「この世界には、この次元で生きているからこそ生じる、さまざまな苦しみがあるの。 それは、あらゆる場合に生まれるわ。 だから、そうして苦しんでいる人たちのための、少しでも力になれればいいと思う。 でも、わたしみたいに働いている存在は、ほかにもたくさんいるわ。 それがその存在の、存在している意味でもあるんだけど。 彼らが黙って、たゆまず環境や、植物の成長や実りに気を配っているからこそ、この世界は美しさを保っているのよ」

 

きっと、そうに違いないのだろう。

目の前にスイがいる。 それは本当であり、彼女が話す事のすべてを、その確かな存在感が肯定しているように思えた。

「僕は・・・きみたちのために、何をすればいいの?」

思わずそう聞いていた。

スイは僕のもっと近くまで飛んできて、ちょこんと肩に乗った。 そして、耳元でささやくように言った。

「そうね。 あなたがあなたらしさを充分に発揮すること。 そうできるように努力すること。 それはいつ、どんな時にもよ」

いつ、どんな時にも・・・。

「あなたの正直な思いを大切に。 本当に大切にしなければならないと、心の底が感じていることを信じること。・・・」

「・・・」

「次の扉を開く鍵は、月並みだけどやっぱり愛なの。 無償の愛。 与えることで生きる愛。 それはいのち、そしてもっとも深いところの自分自身・・・たましいを目覚めさせる鍵」

 

 

 

 

 レインボー (6)

 

試験もなんとかやり過ごし、目覚めの気分はきょうの天気みたいに晴れ晴れしていた。

窓を開け、思い切り伸びをする。 夜のうちの雨に洗われた空気が澄んで、陽の光が何もかもをきらきらと美しく見せていた。

 

土曜だというのにずいぶん早くに目が覚めてしまったので、散歩でもしようと家を出る。

まだ6 時半を回ったばかりだが、夜明けが早いせいか、家からほど近い大きな広場を持つ公園には、もうけっこう人が出て来ていた。

 

このあたりは都心からさほど遠くないのに、緑豊かな自然が残っている数少ない地域だ。 広い公園内には、以前このあたりが雑木林だった事をうかがわせる、さまざまな種類の自然林が数多く残っていて、樹齢幾百年という巨木には、それぞれに保護指定のプレートが下げられていた。 そして、そばを流れる、あまりきれいだとは言えない小さな川にも、よくいるカモばかりでなく、サギやウなどの水鳥たちが生息していた。

その川沿いの歩道を、大小さまざまな犬が散歩しているが、雑種というのはあまり見かけない。 しかし、マンションも多く、庭先もあまり広いとは言えないはずのこの町の住宅の、どこでこんなにたくさんの犬が飼われているのか不思議なくらいだ。

公園の広い遊歩道を挟むようにして立っている、大木のケヤキの枝や葉が高いところで重なり合って、ドームみたいな日よけの天井を作っていた。 なんとなく立ち止まり、大きく一つ深呼吸・・・。

「あら、おはよう!」

声のした方に振り向くと、なんとみちるさんがいた!

「お、おはよう!」

グッド・ハプニングだけど、朝だというのに心臓がばくばくいっている。 先日、彼女にせっかくメールアドレスを教えてもらったのに、テスト直前だったという事と、今一歩の勇気不足で、僕は彼女にメールするタイミングを逃していた。

「散歩しに来たの?」

ジョギングの途中らしかった彼女は、白のTシャツに短パン姿で息を弾ませながら、僕にそう尋ねた。

「うん。 試験も終わったし、早起きしたから、たまには健康にいい事でもしてみようかと・・・。 それより、・・・文月さんは、いつもここらへんを走ってるの?」

彼女は首にかけていたタオルで額の汗をふくと、にっこりして答えた。

「土日はね。 朝晴れていれば、走るわよ。 ええと、お名前・・・まだうかがっていなかったわ」

「僕は銀林。 銀色の、林って書くんだけど、銀林健斗です」

「それじゃあ、銀林くんも、走ってみたら?」

 

というわけで、次の日から一緒に走る事になってしまった。 彼女に会えるのはものすごくうれしいのだが、川沿いの道を往復して5キロほども走るのは、慣れてない僕にはやはりキツかった。 鹿みたいに身軽に走る彼女とは対照的で、僕はハアハアいいながらついて行くのがやっとだった。

しかし彼女は、

「最初からついて来れるなんて、銀林くん、やるじゃない」

と言ってくれた。 そりゃそうだろう。 彼女にカッコわるいと思われたくなくて、今までで一番気合の入ったハイペースの走りをしたんだから。

 

僕たちは近くの自動販売機でスポーツドリンクを買って、川に向いて据えつけてある、空いていたベンチの一つに座った。

「文月さんは、いつからこの町に住んでるの?」

知ってはいたが、尋ねてみる。 彼女の事を、直接彼女に聞いてみたかったから。

「今年の3月に越してきたばかりよ。 いろいろ、うちの事情があって」

「そうなんだ」

「銀林くんは、ずっとこのへんに住んでるの?」

「いや、僕も4年前に、二つ向こうの駅の町から越して来たんだ。 親が家を建てたんで。 今は父親が単身赴任中だから、母親と二人で暮らしてる」

「そう。 私も母と二人で住んでるわ。 父と妹はイギリスに行っちゃった。 父の仕事に都合がよくて。 ・・・両親が、離婚しちゃったからね」

横顔がやっぱり寂しそうだったので・・・僕も何だか、言葉につまる。

「でも、それはしようがないし。 私も、もう子供じゃないから」

そう言って、彼女は笑ってみせた。 僕はその言葉に、ただうなずくしかなかった。

 

「銀林くんて、あの制服からすると宮の坂高校よね。 あそこはえり抜きの進学校だけど、将来は何になりたいと思ってるの?」

「医者・・・」

と答えてから、そのあとの言葉が見つからない。 人の病気を治すのが医者の仕事なのはわかるのだが、果たして何科の医者を目指そうとか、そういう具体的なものが漠然としていた。

「そう。 あなた、いいお医者さんになるわね。 そんな気がするもの」

彼女がそんなふうに言ってくれるなんて! 僕はすごくうれしかった。

「文月さんの・・・将来の夢は、何?」

彼女は少し首をかしげて言った。

「そうねぇ。 まだはっきりしないかなぁ。 いろいろ考えてはみるんだけど。 でも、今一番がんばれるのは・・・」

「走る事!」

彼女が言うよりも先に、僕がすばやく答えを言った。

「かな?」

「正解よ」

彼女はちょっと驚いたような目をしたが、すぐにくすくすと笑い出した。 思わず顔を見合わせて、笑ってしまう。

一羽のカモがしぶきをあげて、水面に上手に着水した。