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月間アーカイブ: 6月 2014

 レインボー (18)

 

 

『ここのところひんぱんに、妹が向こうの情報をいろいろ調べて、メールで送ってくれます・・・』

みちるさんからそう、僕宛てにメールが届いた。 妹のみのるさんはイギリスに帰って、また父親の元でハイスクールに通っている。

『以前銀林くんが話してくれたように、イギリスでは花やハーブといった植物は生活の大切な一部分で、人々はそれをいろいろな形で上手に暮らしの中に役立てているのですが、それはまた病院などでも利用されていて、日本ではもうおなじみのアロマセラピー用のエッセンシャルオイルや、あなたからいただいた、花の波動を水に転写させたフラワーエッセンスなども、患者さんの心のケアや、実際の現場の治療にも使われているほどだそうです。

人々は自然から得るものをとても大切に考えていて、受け継がれてきたもの、また新たに人の英知となったものも、今の技術の中で大きく貢献、発展しているようです』

 

数日後、みちるさんから、年明け前に退院できるといううれしい知らせの電話があった。 週に一度、彼女に堂々と会える口実がなくなるが、僕も受験の追い込みだ。

「ひとりで自由に行動できるようになったら、夏休みにフィンドホーンに行ってみようと思ってるの。 妹も一緒に行くと言ってるのよ。 いろいろ調べているうちに、自分も興味がわいてきたみたい」

電話の向こうでそう言って、彼女は笑った。 弾むような声からは、彼女が新しい希望にあふれているのがわかる。

「銀林くんが持ってきてくれた花の写真集にのっていた風景のような、丘いっぱいに花の色で描かれた虹も見たいの。 だからあの場所にも、花を訪ねる旅をしようと思っているのよ」

 

 

なんだか喜びの興奮覚めやらなくて、コートを着て夜の散歩に出た。

僕には僕の目標がある。 まずはその目指す目標のスタートラインに立てる事。 そして、古くて新しい様々な方法も取り入れて、訪れる人の痛みをできるだけやわらげてあげられるようなケアをする事。

体が痛めば心が痛む。 だから全体でその人を考えて支えたい。 そんな医療がしたい。 それが今の、僕の夢になった。

ひとりでもできる事から始めたらいい。 難しく考えることじゃないさ。 歩きながら僕は口笛を吹いてみた。

 

 

自分の部屋に戻って来た。 暖房を付けもう一度キッチンに下りて、紅茶の入ったティーポットとふたり分のカップを持って来る。 ついでに缶入りのクッキーも。

窓辺にクリスタルを置こうと思ったら、もうそこにスイがいた。

「おっ、いらっしゃい。 早かったね」

僕の言葉に、お茶目な笑顔でうなずいた。

 

お茶を飲み、マーブル模様のクッキーを食べながら、スイはいつになくおしゃべりだった。 同じ妖精仲間のブラウニーが、油断していると知らない間に後ろにいて、いたずらにわたしの髪をひっぱるだとか、自分が大事にしていた真珠の珠を、パックにとられただとか。

「パックになんて見せてあげるんじゃなかったわ。 返してって言っても知らんぷり」

そう言って口をとんがらせていた。

 

スイにはスイの世界があるのだった。これから先もそこで、彼女の言う『学び』をしながら、きっとまた、どこかで誰かを助けるのだろう・・・。

 

何がどう今までと変化したのかわからなかったが、僕はひとつの・・・寂しい予感を感じていた。

「じゃあ、きょうはこのへんで失礼するわね」

スイの言い方は、僕たちの関係に「またあした」 があるようだった。

「もちろん、また会えるよね?」

思わず口をついて出た僕のその問いに、スイは笑って、

「当たり前じゃない」

と言った。 そして、耳元まで飛んできてささやいた。

「また、お茶とお菓子でおしゃべりしましょう」

そう言って、僕の頬にひとつ小さな口づけをした。

 

そして彼女は、出会った時のように笑顔で手を振って、金色の光の輪の中にかき消えるように見えなくなった。

ふと窓辺を見ると、置いてあったはずのクリスタルが無くなっていた。

 

 

 

次にめぐって来る春、花の季節に、きっとあの小さな彼女に良い報告ができるように、受験に全力をつくそう。

窓を思いきり開け、身を乗り出して空を眺めた。 静かな夜、濃紺の澄んだ空に月がこうこうと輝いている。 吐く息が白く凍って霧になる。

 

 

春・・・いつかめぐり来る人生の春に、僕は彼女にもらった種を、今度は自分の中に咲かせなくては。 そしてその花を、たくさんの人たちに届ける事ができるように。

 

 

 

 

 

 

 レインボー (17)

 

3日後の学校帰り、僕はプレゼントを持って病院へと向かった。 それは、街で見つけたかわいい焼き菓子の詰め合わせと、花屋の店先にあった、淡いピンクとブルーの花の小さなブーケだった。

 

ドアをノックする。

返事がない。

あれ、きのうメールで行くと伝えておいて、OKの返事をもらったはずなのに・・・と考えていたら、コツン、コツンと廊下をこちらに向かって来る音がした。 その方に振り向いて驚く!

「すごい! もう歩けるんだね!!」

両脇に松葉杖を挟んでだったが、義足をつけた足で立って、みちるさんは歩いていた! 僕の、たぶんはじけそうにうれしそうな顔を見て、彼女は照れくさそうに笑って言った。

「ちょっと前から、ひとりで売店にも行けるくらいになってたの。 あなたを驚かせたくて、黙っていたのよ」

「やった! ばんざい!!」

その大きな声に、ナース室の看護師さんが首だけ出してこちらをのぞいた。

「すいません」

小声になってあやまる。

「中に入りましょう」

そううながされて、僕たちは彼女の部屋に入った。

 

「ちょっと後ろを向いててね」

そう言われて、そのようにする。

ぎしぎし、と、何かを外すような音。 それからみちるさんはベッドに座ったようで、

「いいわよ」

と声がした。 後ろに向き直り、ハッと息をのんだ。 彼女が切断した方の足を、サポーターを巻いてはいたが直接見せて、もう片方の足と一緒にベッドの上に投げ出して座っていたのだ。

気持ちのふいを突かれて、不覚にも僕は涙ぐんでしまった。

「どうしたのよ、銀林くん」

彼女は僕をなぐさめるようにやさしく言った。 これじゃあ立場が逆じゃないか!

「あなたがいたからきっと、こんなに早く受け入れる事ができたんだと思う。 本当にそう」

彼女の目にも、涙が浮かんでいた。

「お茶でも飲みましょう。 カモミールの」

そう言ってにっこりすると、戸棚の引き出しの中から彼女が取り出したのは、彼女の鉢に咲いたのを陽に当てて干した花だといった。 ガラス瓶の中のそれは、冬の午後の弱い光を透かしてこがね色だった。

部屋の湯沸かしポットは、このごろハーブティーに凝りだした娘に、彼女の母が、すぐにお茶をいれることができるようにと買って来てくれたものなのだという。

 

ティーポットに花を入れ、お湯を注いで待つ間に彼女は言った。

「銀林くん、カモミールの花言葉を知ってる?」

ふいの質問に、そんなこと考えた事もなかった僕は、首を横に振った。

「この花の花言葉はね、『逆境の中の活力』 って、言うんですって」

僕は一瞬、言葉を失ってしまった。 スイの顔がぼんやりと頭に浮かぶ・・・。

 

「それにしても・・・」

と彼女は言った。

「え?」

「それにしてもこのカモミール、本に書いてあったのとは、成長の早さも花の時期もほとんど違うのよね。 こんな種類があったのかしら? 銀林くん、確かお友達に種をもらったと言っていたわよね」

彼女は不思議そうに聞いた。

僕はスイの事を話して良いものかどうか迷った。 そりゃそうだろう。 実は妖精の友達がいます、なんてマジメに言われても、相手は返事のしようがないというものだ。 しかも場合によっては、こちらの頭の中を疑われかねない・・・。

 

だけど・・・、と僕は思った。

だけどみちるさんなら、・・・彼女ならもしかして、まともに請け合ってくれるかもしれない。 直観が僕にそう言っているような気がする。

「友達はその種に、魔法をかけたって言ってたよ」

「魔法を!?」

驚いたみちるさんの目が、まん丸くなっている。 でも彼女はちょっと考えるようにしてから、また声をひそめて言った。

「その友達って、・・・もちろん人間よね?」

僕は黙って首を横に振った。

「え・・・。 じゃあまさかとは思うけど、魔法を使える、自然の精霊とか、妖精とかなのかしら・・・?」

今度は僕が驚く番だった。 思いもよらず、みちるさんの口からそんな言葉が飛び出してきたからだ。 お互いを驚きの目で見つめて、少しのあいだ口もきけずにいた。

「どうしてそんなふうに思うの!?」

今度は僕の方から切り出した。

「銀林くんは、イギリスにフィンドホーンという場所があるのを知っているかしら? わたしも最近妹から聞いて、初めて知ったんだけど・・・」

彼女は一冊の本を戸棚から取り出すと、僕に見せてくれた。

 

今から50年ほど前の、1962年11月、イギリスのスコットランドの北の端の、フィンドホーン村という場所に暮らし始めた人たちがいた。 雑草も満足に生えないような荒涼としたその土地に、キャディ一家の5人・・・夫婦と、まだ幼い3人の男の子たち・・・と、その友人のドロシーは、引いて来た古いトレーラーハウスを住居にして住むことにしたのだった。

 

一家の主人であるピーターは、それまでその村から8キロほど離れたフォレスという町のホテルで、支配人として働いていた。 そうなるまでの人生の主要な時間は、軍人として称号を得て仕事をしてきた彼は、ホテルの運営などまったくの無知だったが、ピーターが支配人になると、数年後には、ホテルの収益は以前の3倍にもなる。 その成功は、ホテル運営の細かな指示を、妻のアイリーンにもたらされる、神からの内的啓示(『ガイダンス』 と呼ばれる) により得て、それをピーターが中心となり忠実に実行に移す事、昼夜をいとわぬその努力により実現していったものだった。

 

しかしホテルの経営者は、ホテルが神の啓示に従って経営されているという話が広まっていくのを嫌い、一家をいったん別の場所にあるホテルに1年転勤させた後、突然解雇してしまう。

キャディ一家とドロシーは、明日からの職のあても、家すらないまま、住みかでもあったホテルを追い出されるように後にした。 神の啓示は、「すべき事は一日一日を生きていく事。 一度に一歩ずつ進んで行く事で、常にこのように生きていく事を学ぶ事であり、私の指導の下に一歩ずつ進んで行けば、すべては完璧に成就するでしょう」 と、総じてアイリーンに、そのように告げていた。・・・

 

その後しばらく、ピーターの職探しは奇妙なほどに失敗し続ける。 現金収入の道が途絶えたので、彼らは食事の足しにするために、ハリエニシダという、水も養分もほとんど必要としない、荒れ地にしか生えない植物が主だった、フィンドホーンのその砂地の土地に、菜園を造る事にしたのだった。

 

そのころ、一家と数年来運命を共にしてきた友人のドロシーに、変化が起きた。 自然の精霊の声が聞こえるようになったのだ。

「植物の精霊たちと、協力して菜園で働きなさい」

この声が聞こえた当のドロシーでさえ、はじめは半信半疑だったという。 しかし精霊・・・その野菜を担当する妖精たちから直接メッセージを受け、それに従い忠実に実行すると、味も形も大きさも信じられないほどのすばらしい野菜ができ始めた。 (驚くべき巨大野菜の収穫は、数年の後に終わってしまうが・・・。)

 

時には遠くの空にオーロラが見える事さえあるという、北の果てのその地で、その土壌と気候からは到底育つはずのないそれら農作物の収穫に、ドロシーは、

「フィンドホーンがエデンの園である事を証明し、自然界の精霊と人間が協力すれば、新たな可能性が広がる事を知らせるためにできたものなのです」

と、言っている。・・・

 

 

僕はそれを読んで、そこにはたぶん、嘘は無いだろうと感じていた。 信じるも信じないも、ほとんどが書いてある通りの事だろうと。 水晶を置けばすぐに現れて、力や勇気をくれたスイの存在は、まぎれもなく僕の現実だったから。

そして、スイがくれたカモミールの種は、驚く早さでしっかり育って、うっとりするほどの香りを放つ花を、豊かに咲かせた。 それはまさに魔法だった。

 

みちるさんは言った。

「イギリスの、特に地方ではもともとそういう伝説のある土地柄という事もあって、人間のために役に立とうといろいろ世話を焼く、精霊や妖精と言われる存在がいると、今でも信じられてるの。 子供のころ向こうに遊びに行って、ちょっとしたいたずらをたしなめられたりする時に、エルフィンにつねられるとか何とか、私も向こうのおばさんに言われたことがあったわ。 そして実際に彼らとコンタクトを取ることができたり、その姿が見えたりする人たちは、意外に多いらしいのよ」

彼女は話す途中でますます実感がわいてきたようで、ほほを染め、目を輝かせて言った。

「でもすごいわ! 銀林くんの話す事が本当なら、あなたはなんてすばらしい経験をしたのかしら。 わたしたちはなんて素敵な贈り物をいただいたのかしら!」

 

今そこにスイがいるように思えたのは、気のせいだろうか。 窓辺に飾ったブーケの花のあたりから、いつもスイが帰った後に残る花の香りが、かすかに香って来ていた。

 

 

 

 

 レインボー (16)

 

塾の帰り。

クリスマスも間近に迫り、街のイルミネーションはひときわ輝いていた。 今年の僕にはほとんど関係ないのでなんだか少しさみしい気もするが、この、何ともいえない高揚した雰囲気は、きっと人々が思い描く夢そのものなのだろう。

 

家に着くと母親は外出中で、冷蔵庫の中にシチューがあると、テーブルの上にメモがのっていた。

食事が済んで、洗い物を流しに戻すと2階へ上がった。 椅子に座り、なんとなく机周りを眺める。 ・・・なんだかいろいろなものが積み重なっている。 参考書、問題集、ノートにプリント類・・・新聞雑誌のたぐいまであってごちゃごちゃだ。

片付けよう。

 

まずは、机の上に目を向ける。

結果が出てからすでにだいぶ経っているテスト用紙や、塾の模試のプリント、DMなんかでパソコンの横がふさがっていた。 ちらりとめくってみたが、結局そのままゴミ箱行きとなる。 DMは、読んだら今度は、すぐいるものだけボードにでも貼って、それ以外は捨ててしまおう。 いつか・・・なんて思っても、取っておいたその情報が役に立ったためしがない。

 

机の横に、机と同じ高さでもう一つ設けてある引き出しの上に、読んでそのまま積み重ねてしまっていた本は、きょう寝る前に読む一冊だけを残して、本棚へ戻した。 下に下りて除菌のできるウエットティッシュを持ってきて、物がなくなった机の上と、パソコンとをすみずみまで拭いた。

見違えるほどきれいに広くなった机の上やその周囲を見て、以前本で読んだ事を思い出した。 机や床の平面積は、仕事の能率や出世と大いに関係があるらしい・・・平面の広がりというのは、豊かさのシンボルなのだそうだ。 だから、大きな銀行の床が広々としているのはそのためらしい。 逆に、机や床の上がごちゃごちゃしている人は、経済的な問題を抱えやすいんだそうな・・・。

こうやってきれいになったのを見ていると、それも一理ありそうな気がする。

 

今度は部屋全体を見回し、部屋の隅に重なっている雑誌や、ハンガーラックにただひっかけてある上着やズボン、バッグなどをきれいに整頓した。 雑誌の方は、以前通販で何かを買ったのがきっかけで、その後も毎号届く分厚いカタログやら、ずいぶん前の週刊誌もあった。 取っておいてあるわけでもないが、放置しておくと自然とそれきり忘れてしまう。 知識によれば、無意識がそれに慣れているから平気だという事らしいが、それで平気だという事は・・・。 今度からは意識的に片づける努力をしよう、と小さな決意。

さっきの本の原則は、一つ増やす時は、それまで持っていたものの中から一つ捨てる、だっけ。 そう考えれば不必要なものを安易に買う事もなくなるだろう。 『本当に必要なものは、必要な時に現れる』 という、どこかの神様の金言もあった。

 

すっきりしたら掃除機をかけたくなったので、もう一度下に下りて持ってくる。 母親がいなくなればその日から、生活に必要なすべての事は自分がやらなくてはならないのだ。 当たり前だが。 掃除機を戻しに行ったついでに、自分の食べ終えた後の食器も洗った。

 

さすがにきれいになった部屋を眺めていたら、なんだか花を飾りたくなった。 不思議なものだ。 これも心の余裕というやつだろう。

掃除のために開け放した窓から、冷たい冬の空気が流れ込んでくる。 そろそろ閉めよう。

この次病院に行く時には、みちるさんにも花を買って行こう。 それは自分でも、最高の思いつきに思えた。

 

 

 

 

 レインボー (15)

 

試験のために2週間ほど見舞いに行けないうちに、彼女に変化が起きたようだった。 メールでいろいろと報告してきてくれる。

「こんにちは! きょうは母に、頼んでおいたアロマセラピーに関する本と、またいくつかの、花のエッセンシャルオイルを買って来てもらいました。 このオイル一つ一つの香りや効用を覚え、ブレンドもして使いこなせるようになりたいから、がんばります!」

みちるさんはどうやら、芳香療法を扱うプロ、アロマセラピストを目標にしたらしい。

「わたしのいる部屋の前を通ると、このごろいつもいい香りがするから気分が良くなると、他の患者さんや看護士さんに言われるのがとてもうれしい」

と、その日のメールは結ばれていた。

 

そういえばいつも、スイが帰った後には、やさしい花の香りが残っていた。 それに気づくと僕は、どんな時にも気持ちが安らいだ。

花々や植物なる緑の安らぎは、いつでも癒しを与えようと僕らのそばに存在しているのだ。 生きとし生けるもののための滋養を育み、それを与えるために。 たとえこちらが、それに気づいていなくとも。

気づくことができればなお、誰にでも分け隔てなく、生きていく安心感や心地良さの扉が大きく開かれる。

 

僕の中で、スイや、その仲間たち、あるいは自然のあらゆる精霊たちが存在し、花や緑となって呼吸し、それがいつも人と共にある・・・その事が、突然胸に迫って来た。

僕らは本当は何かを画期的に変えていかなくても、最初から必要なものはみんな与えられている。 そして存在そのものが許され、愛されているのだ。 だからこそ、ありのままの自分の価値や意味、そして喜びを、誰もが必ず自分の中に見い出せる。 生かされているという愛情に、気づくことさえできれば。

 

 

 

 

 

学校に通い、塾に通い、繰り返しの毎日がこつこつと過ぎていく。 その間に季節は、本格的な冬を迎えようとしていた。

 

家に帰ると、母親がまたお菓子を作っているようだった。 その甘い香りが、玄関まで漂って来ている。

「何作ってるの?」

キッチンへのドアを開けて尋ねると、スーパーバニラ・チーズケーキ、という答えだった。

何? 『超バニラ』って、そんなにすごいの?

「バニラビーンズを、これ以上ないくらいぜいたくに使ったチーズケーキよ。 バニラビーンズっていうのは、バニラの黒いさやの中に詰まっている、点々みたいに小さな種の事なんだけど、それがあの甘いバニラ本来の香りの元なの。 それを普段のものの何倍もぜいたくに使って作るチーズケーキよ。 私の通ってるF先生の、特別なレシピの一つなのよ」

そう聞いて、そのいい香りにますます鼻をひくひくさせてしまった。 焼きあがったばかりだというので、冷めるのが待ち遠しい。

でもその前に、僕は腹ペコだった。 母親が、

「ごめんね、きょうはケーキに手間取って、何も用意してないの」

 

というわけで、それから1時間後に親子二人の外食となった。

寿司屋のテーブルに向かい合わせで、握り寿司にかぶりついていた僕に、母親は切り出した。

「実はね、来年の春から、お父さんが向こうに来ないかって」

「えっ!?」

大きなイカが、のどに詰まりそうになる。

「なんでまた急に?」

「急でもないのよ。 2年間っていう約束でお父さんはシカゴに行ったわけだけど、いろいろあって、予定よりだいぶ延びそうなんだって。 あなたの大学の事があるから相談してみないとって、言ってあるんだけど・・・」

母親は、何とも言えない困ったような表情だった。

 

「それで、母さんはどうしたいの?」

お茶を飲んで一呼吸ついてから、僕はまっすぐ母親を見て、聞いた。

「私は正直言って、あなた一人を置いて行くのは心配よ。 お菓子教室も、せっかく、本当に楽しくなってきたところだし。 でもお父さんも、いくらメイドさんがいるとはいえ、やっぱり大変よね。 食事とか。 母さんも、2年だけならあなたの事があるから日本にいようと思ってたけど、やっぱりお父さんと暮らしたいわ」

母さんは、僕と学校の事を心配していたわけだ。 当然かもしれないけど。 しかしそれなら、話は決まった。

「僕は東京に残る」

「そう・・・」

少しの間僕の顔を見つめてから、母さんは言った。

「そう言うだろうと思っていたんだけど。 ・・・あなたなんだか、いつの間にかずいぶん大人びたわね。 このごろそう感じてたの。 じゃあ、入試がんばりなさいよ。 浪人の息子を置いて、外国になんて行けないんだから」

 

 

 

その夜帰って部屋に戻ると、窓辺の、いつも彼女を呼び出す時にクリスタルを置くあたりに、スイがちょこんと座っていた。

「ちょうど呼ぼうと思っていたところなんだよ。 お菓子があるし」

本当にそうなのだったが、スイを見つけた僕は、彼女がいる事で自分が予想以上にうれしくなっている事に気づいた。

「きみから来てくれるなんて、うれしいよ」

思わず素直にそう言うと、

「それはそれは」

と、わざとかしこまった調子で答えて、スイは笑った。

 

キッチンに下りていくと、母親が、先ほどのケーキにナイフを入れていた。 つやのある、美しいきつね色に焼きあがったケーキ。 切り口の、カスタードクリームの色をした断面からは、バニラビーンズの黒く細かな粒々が、たくさん顔をのぞかせている。

「上で食べるよ。 大きく切ってね」

そう言って、それとティーポットと一緒に、こっそり用意したスイ用のカップとお皿と、小さなフォークも持って2階へ上がった。

ちぐはぐした大きさの、二人分のカップに紅茶を注ぐ。 スイはそれをそばで見つめていた。

小さなお茶会。 スイと一緒だと、不思議の国のアリスの世界だな、と思う。 小学校の時の担任の先生が、自習の時間にディズニー映画のそれを、こっそり見せてくれたっけ。 あとでちゃんと感想文を書かされたけど。

 

「さて、きょうはなんの話をしましょうか?」

僕たちはケーキに満足して、2杯目の紅茶を飲んだ。

「来年の春に、ここを引っ越す事になった」

「うん」

スイはうなずく。

「父さんの仕事の都合が変わって、まだしばらく向こうにいる事になったんだって。 だから母さんも、今度はあっちに行く事にしたらしい」

「それで、あなたは?」

「うん。 僕はこの家じゃ広すぎて、とても管理や何やできないし、母さんはここを、向こうに行ってる間だけ人に貸すことにしたいと言ってるから、僕も適当な安いところを見つけて引っ越しだ」

「そう」

「ピップは親戚に預かってもらうって」

スイはまたうなずいた。

「大学、滑らないようにしなきゃあな」

ひとりでにそんな言葉が口をついたが、本当にそうだった。 ぴしゃりとひざを叩いて立ち上がり、伸びをする。 何だか武者震い。

「がんばって!」

何だか周囲の変化がめまぐるしい。 だが、ここですくんでいたら男じゃない。

「じゃあ、ひとつ物理の復習でもするか」

「さっそくね」

スイは楽しそうににこにこしている。 その顔を見ていると、何も困難な事じゃないと思えてくる。

 

それから 「じゃあね」と、スイは座っていた机の端からふわりと飛び立った。

「ケーキ、とってもおいしかったわ。 お母様、本当にお菓子を作るのが上手ね」

そう言って小さなウインクすると、パッと行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 レインボー (14)

 

 

「見て、私の鉢のも咲いたのよ」

次の土曜日にみちるさんを見舞うと、さっそくそんな報告があった。

「えっ、どれどれ?」

見るといつの間にかたくさんのつぼみを持った茎は、いくつもかわいらしい花を咲かせていた。 早いものは開いてから2、3日経っているらしく、白い花びらが外側にそり返ったようになって、黄色い花芯がこんもりと盛り上がっている。

「これをつぶすと・・・」

と言って、僕は花の終わりかけたのを一つつまんで、花芯の部分を指先で軽くつぶした。 そのまま彼女の鼻先までそれを持って行く。

「なんていうか、甘酸っぱいような、いい香りね」

深く香りを吸い込んで、彼女はうれしそうに言った。

「カモミールの香りは、リンゴに似てるって言われるらしいね。 そうそう、みちるさんに、持ってきたものがあるんだ」

「ほんとう? いつもありがとう」

彼女は笑って、ベッドに座ったままで少し身を乗り出した。

 

一つめ。 それはこの前本屋で偶然目に留まり、思わず気に入って買った例の写真集だった。 みちるさんも気に入るんじゃないかと思って持ってきたが、彼女はお礼を言って受け取ると、すぐに開いてページをめくった。

「きれいねえ・・・」

見渡すかぎりどこまでも続く、ラヴェンダー畑の紫のさざ波。 野原を彩る真紅のヒナゲシ。 道端や畑の隅に咲く、名もない無数の花たち・・・。

民家の庭には、それぞれが丹精込めた色とりどりの花々が植えてある。 そしてピンク、オレンジ、白、黄色・・・まるで花びらの帯で虹をかけたように美しい色彩の変化でうねる丘。 そのグラビアのページを眺めながら、彼女は目を細めた。

「そうだったわ・・・。 向こうの人は花やハーブをとても愛していて、行くとそこらじゅうに、いつもお花が咲いてた・・・」

きのうの晩に見た、うっとりした夢の話をするように、彼女はそう言った。

 

「あともう一つは・・・」

2番めに僕が取り出したのは、スイからもらった、花の波動、エネルギーを転写した水・・・フラワーエッセンスの入った、あのボトルだった。

それは、スイレンとアザミの花のそれを転写した水だと、僕は知っていた。 それはスイが、僕のひたいに手をかざした時そう知らされたからだ。

 

みちるさんに聞いて、備え付けの冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、コップに3分の1ほど水を注ぐ。 その中に、エッセンスのボトルのふたも兼ねているスポイトから7滴、しずくを落とした。

「さあ、どうぞ」

うながされて、彼女はそれを飲んだ。

「あまり、味はしないわね」

「うん。 これは、お日様の下で活き活きと咲いてる花を、手を直接使わずに摘んで、すぐにきれいな水の上に浮かべて、花の波動とエネルギーとを水に写し取ったものなんだ。 だから、味や香りみたいなものは無い。 僕たち人間が、花の持つ特別な何かをもらう方法らしいよ」

「へええ~」

よくわからないようながらも、感心した様子でうなずいてくれた。

 

花自体を蒸留して取り出す、アロマセラピー用のエッセンスとは、全く違う種類のものだと、付け加えて説明する。

「少しお酒の香りが感じられるのは、ボトルの中に何滴か、防腐用として入っているアルコールのせい。 まあ、料理やお菓子に使われているのなんかと一緒だから、未成年の飲酒にはならないよ」

僕の軽口に、彼女はくすくす笑った。

「これを一日2、3回、同じようにして飲んでみて。 きっと、なんていうか、もっと気持ちが軽くなるっていうか、元気が出てくるはずだよ」

「うれしいわ。 ありがとう」

みちるさんは、本当にうれしそうに受け取ってくれた。

 

「さてお嬢さま、せっかく咲いているこの花で、ひとつお茶でもいかがですか?」

僕は鉢に咲いているカモミールの花を、横目でちらりと見て言った。

「まあ、すてき」

彼女は笑ってうなずいた。

 

咲いているので頃合いの良さそうなのをいくつか摘んで、カップに入れた。 湯沸し室に行き、その中に、沸かしたばかりのお湯をさっと注ぐ。 生花が使える時にだけ味わえる、少しぜいたくな香りのティー。

 

それを飲みながら、彼女の最近の話になった。

体が、まだ以前の歩く動作の感覚を覚えている早いうちに、義足に慣れる事が必要なのだという。 義肢装具士という専門家がみちるさんの足に合わせて、歩行の練習をしながらそれを調節し、もっとも良い状態のものに仕上げてくれるという。

「足のリハビリと一緒に上半身の筋肉も鍛えているんだけど、なまっちゃっていたから、けっこうきつくて」

照れくさそうに笑って、彼女は言った。 そして、タオルケットの上からそっと左足に触れた。

「でも、めげないでがんばるわ。 だってね・・・」

 

そう言いかけて、彼女はうれしそうに僕を見た。

「だって銀林くん、義足に慣れれば、また走ることだってできるようになるんだって!」

「えっ!! ほんとに!?」

僕は心底驚いた。 そして本当にうれしかった!!

やっと彼女の、明るんだ笑顔が戻って来た。 思わず涙が出そうになる。 彼女がまた走れるようになるなんて! 僕は彼女の手を取って、ぶんぶんゆすった。

「きみはまた、走れるんだ!!」

「うん!」

僕の手を握り返してうなずいた、彼女の瞳も美しい涙でうるんでいた。